映画を観てる時の共感性羞恥について
2025年 09月 13日

「人情劇」というもの。よく作り込まれているものは良いのだが、なにやらこう、安っぽい御涙頂戴のご都合主義なストーリーとかは大いに苦手である。憎んでいると言っても良い。「おいおい、それはないだろう」というシチュエーションやストーリー展開。あまりにも偶然が多すぎると、すっかり冷めてしまう。物語に入り込めない。
それが、「共感性羞恥」によるものだと気づいた。ご都合主義のシーンを見ていると、身を捩ってのけぞって「やめて!」と叫びたくなる。特に、これは邦画に多い。悲しみを表現するのに、涙を搾り出す必要はない。すぐに涙を流せる役者が、良い役者では決してない。感情マックスの「演技」で唾を飛ばし涙を振り絞って叫ばれると、「あー、またこれか」と思ってしまう。
もちろん、それが適した演出のシーンもあるが、たいていはオーバーアクティングである。演者さんも可哀想だし、見ているこっちも恥ずかしいし、なんでこれをみんなで見てるのだろうと思うと恥ずかしさで身悶えする。
特に、この共感性周知を感じるのは日本のテレビやドラマ。ありえないシチュエーションにあり得ないストーリー、ありえない演技と演出。本当にありえない。
あまりにあり得ないので、それを明治の文豪風のエッセイにまとまてみた。
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映画館の扉をくぐりて座席に身を沈めれば、忽ち現実世界とは縁遠き、奇妙な夢の境に誘われる。斯く、世俗の煩わしき雑事を忘却し、ただひたすらに銀幕に映る影絵を追うのが、私の長年の習いとなっている。主人公の艱難辛苦に胸を痛め、その意気軒昂たる姿に意気を感じ、或いははらはらと涙さえ零す。これぞ、物語に魂を預けし至福の時と言うべし。
されど、この至福の時も、不意に崩れ去ることがある。
それは、物語の筋書きが些か都合よすぎる段取りで、無理に事を運ぼうとする折である。例えば、主人公が絶体絶命の窮地に陥った途端、何処ぞの誰も知らぬ山奥から、件の難儀を解く「秘剣」なるものが転がり出でたるが如き。私はこの瞬間に、これまでの感動が、恰も熱き湯に水を注ぎたる如く、一気に冷え切るのを感じる。
嗚呼、これは一体、何たる恥ずかしき心地であろうか。
私は、この不自然なる展開を目にして、顔を顰めずにはいられぬ。この物語の作者は、斯くも安易に事を収めようとするのか、と。観客たる我々を、斯程までに愚弄しているのか、と。そして、私は同時に、銀幕にて熱演する役者の身の上を案ずる。如何に名優と雖も、斯様な滑稽な筋書きに身を曝され、その真剣なる芝居が、不誠実なる物語の前に、只々惨めに映るのである。
「斯様な物を、皆で見ておるのは、何とも面目次第もなし」。
この羞恥心は、私の内に留まるものではない。斯くも不条理なる物語に付き合わされる我ら観客は皆、同じく不条理なる羞恥を共有しているように思えてならぬ。物語とは、作者と観客との間にある、見えざる信義の上に成り立っておる。故に、その信義が忽ちのうちに毀損されるが如きご都合主義の展開は、我らの心奥に、単なる失望とは異なる、痛切なる感情を植え付けるのである。
銀幕の光を浴びて、私は身をよじる。それは、物語の不誠実に対する痛烈なる反撥であり、同時に、物語と真剣に向き合わんとする、一介の人間としての誠実なる訴えなのかもしれぬ。
by t0maki
| 2025-09-13 11:51
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