29年前に訪れた山田かまち美術館を再訪
2022年 11月 24日

29年前の「ドーハの悲劇」を僕はリアルタイムで見ていただろうか。なんとなく、見ていたような気もするのだが、それはもしかしたら後から見たニュース映像が刷り込まれているのかもしれない。
熱心なサッカーファンではないが、ワールドカップが始まるとなんとなく日本戦をテレビで観戦したり、それなりに結果が気になったりはする。
昨夜の、ドーハでの日本対ドイツ戦は、素晴らしい試合でしたね。ドイツ側から見たら、悪夢のような試合かもしれないけど。あの状況で日本が勝ったのは、本当にすごい。
ドイツの方が明らかに格上だし、上手だし、試合をコントロールしているように見えたのだけど、日本の選手がこぼれ球をスコンと入れたり、単独で攻め入ってギリギリの角度でゴールしたり。結果、終わってみたら日本が勝っていた、と。日本のキーパーが連続セーブしたのもすごかったね。最後のロスタイムは、画面に表示される時計の秒数を手に汗握って見つめてました。
サッカーにそれほど興味がないとは言え、さすがに2002年に日韓合同で開催された時は、結構テレビで試合を観てました。というのもちょっと理由があって、ちょうどその試合があった2002年6月に、僕は右足首のじん帯を修復する手術を受けていたのですね。なので、病院のベッドに備え付けのテレビで、試合を観戦してました。大部屋で、6人くらい患者さんがいたのかな。それぞれが、自分のベッドのテレビをつけて、みんな日本戦を観戦してましたよ。試合中に看護師さんがやってきて、「試合、どう?」なんて聞いてたり。あの怪我がなかったら、もしかしたら試合はリアルタイムでは見られなかったと思う。
2002年は、ちょうど仕事でadidasのサイト制作を担当していたので、サッカー関連のPRサイトなどをつくったりもしてました。トルシエ監督の画像素材をもらって、ページデザインをつくったりね。adidasには、ワールドカップを専門に担当するチームがいて、4年おきに試合が行われるたびに、その現地にチームがかけつけて、仕事をするそうです。20年前の話なので、今でもそうなのかは分からないけど。とにかく、仕事が忙しかったのにも関わらず、手術で一週間入院することになり、そのおかげで2002年は日本戦をリアルタイムで観戦することができた、と。
ちょっと話を戻して、1993年。あのドーハの悲劇があった年。あの頃僕は、毎日往復5時間かけて、新宿の学校へ通っていた。高3の時に突然「留学するぞ!」と思い立って、その準備として海外の大学の日本校に入学したのだ。当時、テンプル大学とネバダ州立大学が、東京に日本校を持っていた。日本にありながら、アメリカの授業を受けられるというもの。私が通ったのは、新宿にあったUniversity of Nevada, Reno-Japanという大学。略して、UNRJ。1年間、新宿で大学レベルの英語を身につけた後、9割以上の学生がアメリカへ渡って、現地で学ぶという。
高校時代、英語が苦手だった僕は、この学校のおかげで英語のスキルだけでなく、英語を使って大学で学ぶための授業の参加方法やエッセイの書き方、グループワークの進め方、プレゼンテーションや、いろんな形式のテストの受け方なども含めて、アカデミックな学び方を身につけ、翌年にに渡米してから4年間の大学生活を成功させるための、適切な準備を整えることができました。1993年の日本校時代は、自分にとってはとても意味のある一年でした。
なんとなく、このドーハでのサッカー試合もそうですが、このところ最近29年前の1993年を振り返る機会が多く。ちょうど先日も、たまたま参加した知人のライブ配信イベントで、登壇者の先生と29年前に会っていたことを知って驚きました。
留学のために英語を勉強していた頃、たまたま参加した先住民族がテーマのシンポジウムで「アイヌ語教室」でアイヌの言葉を教えてくださったのが中川先生。まったく覚えていなかったのですが、実家に残っていた資料を確認したら、そこにしっかり中川先生のお名前があって、当時いただいた教材用資料なども残っていました。
1993年。往復五時間の通勤時間。アイヌ語と出会ったシンポジウム。留学に向けて必死で英語を学びつつ、渋谷のサロンで他の大学の学生たちと出会っていろいろ語ったり。でもそれが後に統一教会のグループだと分かって、残念ながら私はそこを離れるということも。ちょっとした演劇のイベントを企画したのですがうまくいかず、代わりに16mmのサイレント映画を配給会社から借りてきて映写機で上映したりなど。生まれて初めて告白してつきあった女性と、映画を観たり、東京ドームで野球観戦をした後ずっと座って話をしたり。けれど、手をつなぐことさえできなかったな。
十代最後の一年であり、留学前に日本で過ごせる最後の年でもあった。
きっかけは忘れたけど、1993年に僕は山田かまち美術館を訪れている。90年代に、この17歳で夭折した青年が残した絵画や詩がメディアに掲載され、ちょっとしたブームになった。たくさんの人たちが、高崎にある美術館を訪れた。僕も、そのひとり。
美術館のホワイトキューブ的な空間には似つかわしくない、赤裸々でありのままの「叫び」のような作品がそこにあった。アートだけでなく、その時代のロックミュージックや、むきだしの言葉を並べた文章、性的なものへの興味や、海外の女性との文通。学校の先生に絵の才能を認められ、地元の名士に褒められた少年は、自分の居場所を「絵を描くこと」に見出しつつ、高校受験失敗の挫折感を味わいつつ、次第にロックミュージックにも傾倒していく。十代の僕は、なんとなくそこに「仲間を見つけた」ような、共感を感じた。できれば、それらの絵画や詩は、こういった美術館の中ではなく、彼の部屋で見てみたかった。額に入れられる前の、乱雑に積まれたむき出しの状態で。
あれから29年経って、再び高崎の山田かまち美術館へ立ち寄ってみた。あの時、十代だった僕は、もう50に手が届く年齢になっている。最初に彼の作品を見た頃は、自分がもしや大学でアートを専攻することになるとは夢にも思っていなかった。もともと、絵を描いたりするのは大好きだったが、まさかアートを大学で学ぶようになるとは。
渡米留学して、大学に入学したころは人類学部に所属していた。人間について、もっと学びたい、知りたいと思ったから。ところが、アートと出会って、この方がより深く本質的に人間について学べるということを知った。悩んだけれど、結局学部を異動して、アート学部の陶芸彫刻学科を専攻することにした。
この、アートを学ぶと決意した時、もしかしたら自分の中で「山田かまち」の存在と影響があったかもしれない。無意識的に、彼のように創作表現をしたいと思っていたのかもしれない。あれから29年経って、僕は今でも「日曜アーティスト」を名乗って、ささやかな創作活動を続けている。

by t0maki
| 2022-11-24 13:21
| アート
|
Comments(0)