前に進み続けることとその代償
2019年 06月 04日

100km歩いた誇らしい気持ちはだいぶ遠のいていった。昨日は普通に会社で仕事をしていたが、足の裏のマメがひどく、通勤中の駅のホームではおじいさんにも追い越された。
朝、通常10分で行ける皮膚科の病院に20分かけて行った。台の上に乗せられ、看護師さんに絆創膏を取られ、女医さんに覗かれる。裸を見られるよりも、皮膚の中を見られるのは恥ずかしい。
「皮がめくれてしまってますね。どうなされたんですか?」
「週末に、長い距離を歩いてたので」
「そういうイベントか何か?」
「100km歩くという企画です」
「なるほど。かなり広範囲ですので、皮膚を再生するのを手助けする貼り薬と、塗り薬を処方しておきますね。化膿していないか確認したいので、来週来れます?」
金曜日にまた来ることを伝え、僕は病院を後にした。
薬局で「細菌による感染症を治療する抗生物質の貼り薬」と、「床ずれ(褥瘡)を改善する塗り薬」、そして「皮膚の炎症を抑える副腎皮質ホルモンの塗り薬」を受け取るはずが、貼り薬だけ在庫がないとのこと。
《別の薬局に行こうか》とも一瞬考えたが、僕のおじいさん以下の歩行能力ではそれも難しく。とりあえず、薬が薬局に届いたら連絡してもらうことにして、また20分かけて家に帰ってきた。
朝の打ち合わせはキャンセルしてもらい、この日は自宅で仕事。夜の予定もリスケしてもらった。
40代も後半に差し掛かった中年男がなにかにチャレンジしようとすると、周りからは「いい大人がいったい何を」という目で見られることがある。それはそれで、仕方のないことだ。自分でも、自己満足なのだとは分かっている。
100kmウォークだって、途中でリタイヤしていれば、ここまで足の状態はひどくなかったはずだ。諦める知恵も、大事なのかもしれない。
そこにゴールがあるから、がむしゃらに進んでしまう。応援されると、頑張ってしまう。そこに、自分の価値があるような気がして。
夕方、「薬が届いた」と薬局から連絡があった。妻が「夕飯の支度があるのに」と言いながらも、薬を取りに行ってくれた。
「向こう側の世界」と、「こちら側の世界」とがある。
こちら側の世界では、ゴールに向かって歯を食いしばりひたすら頑張って苦痛に耐えている。それなのに、向こう側の世界はなんとものどかで平和そうだ。
100kmウォークの途中、茅ヶ崎の海岸を歩いた時も、歩いている僕らと、海岸にいる人たちとの間に見えない「膜」のようなものがあるのを感じた。世界を隔てる、境界線のようなもの。
汗が乾いて塩になり、焼けた肌にこびりつきピリピリと痛い。襲いかかる睡魔や、疲労の蓄積。すでに、歩いているこの足は自分のものではないような感覚。それでも、ひたすら歩き続ける。
そのすぐ横で、バーベキューをしているグループ。肉の焼ける匂い。アルコールなどの飲み物。ビーチバレーをやっている人もいる。こちらは日焼けで困っているのに、わざわざあえてこんがりと焼いてる人もいる。
この、圧倒的な世界の違い。向こう側とこちら側では、まるで次元が違うかのような。
大学を卒業してすぐ、同じような経験をしたことがある。僕はリノの大学を卒業してすぐ、住所不定無職の「半ホームレス」の状態で、アメリカの西海岸を「職探しの旅」をしていたことがある。その時に感じたのが、これと同じような「世界との隔たり」だった。
まるで、寒い冬の日に温かいレストランを外から覗き込むような感覚。温かい幸せがすぐ目の前に見えているのに、自分は決して触れることができないというような。
いくら努力をしたところで、それが必ず報われるとは限らない。むしろ、頑張れば頑張るほど、良いように利用されて終わることの方が多い。そんな世知辛い世の中だと分かっていても、自ら決めた目標に向かって努力を続ける人がいる。
周りの人からは理解されずに、むしろ白い目で見られるかもしれない。でも、こちら側の世界で頑張っているのは、1人じゃない。身体中がボロボロになっても、進み続けている人がいる。
どちらが幸せなのかは分からない。けど僕は、自分で前に進みたいと思うし、そういう人たちと一緒に頑張りたいと思う。
by t0maki
| 2019-06-04 17:31
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