リビングシェアのアパートで共同生活をしていた学生時代

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学生の頃、リビングシェアの部屋に住んでました。大学の敷地からすぐ近く。アート学部棟にも歩いて行ける距離なので、よく深夜まで制作作業をするのにもすごく便利で、良い立地でした。

リビングとキッチンがシェア。四つのベッドルームと二つのバストイレ。4人のメンバーはたまに入れ替わりがあるものの、だいたい男女2人ずつだった記憶。

学部も学校もバラバラだったりするんですが、日本人留学生同士協力しつつ。夕食はいつも当番制でつくってました。月の食費が1人60ドル(6千円くらい)で共有の財布をつくってそこに入れてて、買い物した人がそこから払う、と。Costcoで大量買いとかしてたので、結構食費が抑えられてた。で、夕飯時になるとリビングの人口が増えたりして。夕飯を食べたい人は、それぞれ2ドル払っていく仕組み。結構いろいろ料理を覚えましたよ。やけに日持ちがする豆腐とか、安いカリフォルニア米とか、基本的な和食の調味料なんかも普通に近所のお店で買えるし。たまに、手巻き寿司パーティをするときなどは、日本食専門のスーパーで買ってきたり。この頃に、いろいろ料理を覚えました。

標高の高い砂漠気候の地域に住んでたので、意外と難しかったメニューがパエリア。米から鍋で作るんですけど、沸点の温度が低いせいか、レシピ通りに作っても芯が残っちゃったり。あるいは焦げたり。そもそも、日本食の食材をアメリカのものに置き換えたりもするので、微妙に違ってたりね。野菜のサイズ感が、キュウリだけ異様にでかかったり。片栗粉はコーンスターチで代用したり。卵もアメリカでは生で食べられないので、必ず加熱調理が必須だったり。いろいろ試行錯誤と創意工夫しつつ、作った料理をみんなで食べるのは楽しかった。

この部屋に、最後まで残ってたのは僕なんだよな。僕は1998年5月に卒業して、みんなもこの部屋を出ることになり、僕も5月に日本に帰る予定だったのだけど、急遽滞在を延長して、就労ビザを取得してアメリカに残ることに。なので、4人いた部屋が急に1人になって寂しくなった記憶。

ビザ待ちの間、何もしないのも退屈なので、もう卒業したのに大学の夏学期のクラスを受講しました。その講座の中身が、アートギャラリーを使ったインスタレーションのクラス。ギャラリースペースの壁を割り当てられて、そこを使ってなんでもありの作品展を完成させるのがゴール。
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とりあえず僕は、四年間にアートを専攻して学んだことを全てぶつけてみました。専攻の陶芸彫刻だけでなく、木工や鉄鋼も含む彫刻や、油絵、水彩、写真、版画、紙づくりなど、学生時代に学んだ全てをぶつけよう、と。作品のタイトルは『Desert Debris(沙漠塵)』にしました。この、砂漠の真ん中でアートを学んだ、集大成的な作品。

他にも、日本語で書いた文章の断片や、このとき初挑戦したデジタルを使った作品も。このインスタレーションのクラスを担当した先生がたまたまデジタルアートの教授で、僕は在学中にアート学部棟のほとんど全部のアートの教室で何かしら授業を受けてたのですが、唯一入ったことのないコンピュータのラボに入れてもらい、自由にパソコンとフォトショップを使って作品制作を行いました。と言っても、何かを教わったってわけではなく、簡単な説明を一度聞いただけで、あとは自分で勝手に覚えて作品をつくりまさた。唯一質問したのは、正しいスキャンの仕方だけ。あとは、やりながら覚えながら。この後、アメリカ西海岸を「職探しの旅」をした時に、この時につくったデジタル作品をポートフォリオに入れてたのがすごく役立ちました。

おかげで、宝石デザイン会社の広告部門で写真を撮りながらデジタル加工もする仕事をこなすことができたので。

1年間、ロサンゼルスでその仕事をみっちりやりながらパソコンやフォトショップ、ウェブ制作などもしっかり学んで、帰国後はウェブ制作を本業にし、いろんなプロジェクトを経験して、現在は広告とデジタルマーケティングの仕事をしています。

不思議なもので、今振り返ってみるとこの20年の出来事が見事に繋がってるんですよね。なにかひとつが欠けても、今ここに僕はいなかった気がします。

これからもこんな感じで直感を信じてつながりを意識しつつ、全力で面白い方向に人生の舵を切っていきたいなと思います。


by t0maki | 2018-08-21 10:34 | ライフスタイル | Comments(0)