文明と文化、進歩と伝統
2018年 07月 29日

昔ながらの少数民族の文化が、国の進歩の妨げになるっていう理由で迫害されたり。あるいは、その民族に属する若者も、古いしきたりを拒否したり。
日本も、そんな時代があったよね。江戸末期から明治維新にかけて西洋文化がどっと押し寄せてきて、日本古来の文化が失われていった。
その流れは、多分必然だったのだとは思う。世界が、そんな方向に動いてたから。頑なに変化を拒否するべきではないのは分かる。で、僕が知りたいのは、「それで僕らは、幸せになったのか?」ってこと。
文明を享受して、便利な発明品の上に成り立ってる、「満たされた」世の中に僕らはいる。それなのに、この心に空いた穴はなんなんだろう、とか。僕らは本当に幸せなのか?悔いのない人生を送れてる?
死に際に、薄っぺらい人生を後悔はしていないか?自分を捨てて、毎日歯車の一部として生き続けた結果、死への恐怖と生への固執。死んでも死に切れない人が多いのではないか?
なぜ、長生きをしたがる?中身のない空っぽの人生だから、いつまでもいつまでも物足りなくて、引き伸ばしたいだけでは?本気で生きてきたのなら、「あぁ、これでもう十分だ」と、満ち足りた気分で死ねるのでないか?
無政府状態を望んでるわけではない。牧歌的な暮らしに必要以上の理想を押し付けてるのかもしれない。ありのままを受け入れて、子孫を残し、家族をつくり、歴史の流れに自分の足跡を残すということ。
文明と文化。進歩と伝統。
ゆっくりと螺旋を描きつつ動き続ける歴史が次のステージに来た時に、僕らのジェネレーションは素晴らしかったと自信を持って言えるだろうか?文明を維持するために幸せの本質を見失い、死を受け入れることができずに未来の再生を望んで肉体をミイラ化した古代エジプト人のことを、僕らは哀れだと笑えるだろうか。
少なくとも、車酔いでゲロ吐きつつも、伝説の聖地に降り立った少数民族の若者たちは、その瞬間生きていることに感謝しつつ、その想いを即興の歌にしたのではないか?
80年間修行を続けたサドゥの人生は決して無駄ではない。周りにいる弟子や、出会った人や、そしてまたその周りの人にも、こんな風になにかしらの足跡を残している。
様々な文化の中で、人々の幸せを願って道を指し示すものがいる。その声は、我々に届いているのだろうか?
というようなことを、考えつつ。インディゴブルーの肌の色。牛脂で白くしたアフロ。ナニに弟子を乗っけてイキる行者。禁断の果実を食べた若者は、チンコケースをつけるのを嫌がる。
こうして僕らの世界は、振り子のように行ったり来たりしながら、独楽のように回転しながら、螺旋の軌跡を描きながら、進み続けるのだ。
by t0maki
| 2018-07-29 20:33
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