未来という死後の世界
2016年 02月 10日

つい先日、なんとなくネットの網目をあみだくじのようにたどっていったら、とある記事にたどり着きまして、それが亡くなった方のブログに掲載されたものだったんですね。それぞれ全くつながりが無さそうなお二方の、内容も雰囲気も全く異なる二つのブログ。ただ一つの共通点としては、それを執筆した方はもうこの世にはいないということ。
自分の葬式の準備などをする「終活」にも、きちんとSNSやネット上の文章や画像のコンテンツについての指示も入れといた方が良いんだろうなぁ、なんて思いつつ。
自分の存在がこの世から消えても、自分がつくりだしたものはそのままずっと(削除したり、サービスが終了してしまわない限りは)そこに残るのって、なんだか不思議な気もします。でもまぁ、良く考えたら手記やジャーナルを書き残してる人は、その文章は死後も残るわけで。それがデジタル化されて一般公開されて誰でもアクセスできる状態だっていう以外は、それ自体はとりたてて珍しいことでも無い。
そういえば、先日登録したベータ版のSNSは、自分が投稿した内容やコメントなどを学習していって、自分がいなくなっても更新し続けてくれるらしい。ま、そんなのもありつつ。
突然ですが、「死後の世界」って、二つの意味があると思うんですよ。
自分にとっての「死後の世界」って、たとえば宗教的なものを信じていればそこに「天国」とか「涅槃」や「極楽」、「Heaven」みたいなものがあると思われていて、善行を重ねるとそこにたどり着ける、みたいな。もちろん、無宗教で「死後は無だ」って主張する人もいるでしょう。あるいは、輪廻転生なんていう考えもありつつ。
もう一つの「死後の世界」は、これはもうただ単に自分が死んだあとの世界。つまり、「未来」っていう言葉に置き換えられるもの。
自分が死んだ後も現実の世に存在し続ける社会と、その未来。これもまた、ある意味「死後の世界」ですよね。たとえ自分が死んだとしても、日は昇りまた沈み、世界はなんら変わりなく回り続けます。当たり前ですけど。
宗教と科学って、対立するもののように思われているけど、実は同じものを違う角度から観察しているだけだと思ったりするのですよ。アプローチの仕方は異なるけど、その先にあるものは同じ、と。
ちなみに、僕は特定の宗教に入信はしていません。しかし、神様は信じています。
でもその神様は人間の形をしているのではなくて、もっと観念的な存在。信仰そのもの。信じる心を信じる、というか、そんな感じです。
で、思うのは、宗教も科学も、究極的には「人間を幸せにしたい」っていうのがその存在意義であったり、目的のひとつであると思うのですよ。人を幸せにするにはどうすれば良いか。苦しみや不安を取り除いてあげること。それが信仰であるか、薬であるかの手段の違いはあるけど、目指す方向性は一緒なはず。
えーと、何が言いたいんだったっけ?
あ、死後の世界。
死の恐怖から逃れるために、死後の世界を信じるということ。
宗教であれば、天国や輪廻転生を信じ、死後の幸せを願うってこと。
科学であれば、死後の肉体を保存・保管して、未来の技術で再生を願うこと。
「死後の世界」っていうと、なんとなく天国的なものをイメージしがちですけど、そこには自分の「死後の“未来”の世界」っていう意味もある、ということ。だから人間は、死後の科学技術を信じて自分の肉体を冷凍保存したりもする。死後、自分の存在が科学技術によって再生することを信じて。
これってあれですよね。死後の再生を信じて遺体を保管するのって、もう4000年前からやってますよね。エジプトのミイラ。残念ながら、今の時代でも死者を生き返らせる技術は実現してないし、もし実現しちゃったら過去の偉そうな人ばかりが蘇生してなんか面倒くさそう。
おとぎ話や怪談的な「死後の世界」ではなく、僕らが死んだ後の「未来」がより良い世界になる事を僕は願ってます。
by t0maki
| 2016-02-10 23:49
| 乱文・雑文
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